人間にとって、感動することってとっても大切!

人間って、生きてると毎日いろんな感情が湧いてくるわけで、
放っておくと、ネガティブな感情の垢がたまっちゃう!

どこに溜まるかって?

私たちの潜在意識に。

いろんなネガティブなものが潜在意識の上に積もっていくと、
私たちは自分を見失ってしまう。

そうすると、正しい選択ができなくなっちゃう。

正しい選択ができないとどうなるか・・・

気付いたら、間違いだらけのウソの人生を歩んでることになってる!

そんな人生では、どこを切っても幸せじゃない!!

これは、私も経験済み。

自分の潜在意識を無視して、ウソで固めた人生を生きるとどうなるか・・・

もうホントに、死んだ方がマシ、ってくらい辛い。

でも、大丈夫!

潜在意識をお掃除する方法は、ちゃんと、ある☆

その一番簡単で、誰でもできる方法が、
心が揺さぶられるほどの感動体験をすること!

感動する映画を見るもよし!
好きな人と一緒に甘い時間を過ごすもよし!
自分の使命を全うするような体験をするもよし!

それが、自分の魂が根幹から揺さぶられるような感動であれば、
効果てきめん!

魂が揺さぶられると、その上に積もってた垢も、
振り落とされちゃうもんね。

そんな感動体験ができる人は、サイコーに幸せな人だ。

と私は思う。


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2011.08.21 Sun l ├感情 l Comments (0) Trackbacks (0) l top
娘って、子どもとしてはとても苦労の多い役回りだと思うの。

一人っ子の場合は別かもしれないけど、
上や下に兄弟がいる場合、女の子って母親から注意を払ってもらえないことが多い。

二人姉妹とかだと、大抵母親から苦労をもらうのはお姉ちゃんのほうで、
妹は結構恵まれて育ってたりする。

でも、妹でも、その下に弟とかがいる場合は、
真ん中の妹って母親から十分な愛情をもらえないことが多い。

男の子と女の子の兄弟とかだと、母親は絶対男の子のほうに気が行く。

これって、ある意味仕方のないことなのかも。

親にとって、異性の子どもは特別かわいいっていうから。

娘を溺愛する母親って、あんまり聞かないけど、
息子を溺愛する母親って、圧倒的に数が多いよね。

でも、それってちょっと問題あり、だと思う。

だって、子どもを主に育てるのは母親なわけでしょ?
子どもの時に母親から十分愛情をかけてもらえなかった女の子が、
自分の子どもに十分愛情を注げると思う?

人間って、経験したことのないことはできないの。

つまり、やってもらったことのないことは、人にもしてあげられないわけ。

だったら、お母さんが男の子の方がかわいいと思う気持ちはわかるけど、
将来の自分の孫のこととか、日本の未来のこととか考えるんだったら、
子育てっていう大きな使命をしょってる女の子の方を当然大切にするべき。

その方が、男の子に愛情を過多に注ぐよりも、将来的に絶対大きな効果がある。

まあ、本当は男の子も女の子も分け隔てなく
愛してあげられるのが一番理想だけどね、もちろん。

母親の愛に飢えた娘たちの数が減るほど、
社会問題のほとんどが解決すると思うんだけどな。


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2011.08.19 Fri l ├感情 l Comments (0) Trackbacks (0) l top
夢を持つということは、一般的にとてもいいことと考えられています。
人は、夢があるからこそ具体的な目標を設定できるし、具体的な目標があるからこそ、人は頑張ることができるのだと思います。
夢は、人を輝かせてくれるとてもいいものです。

しかし、自分の夢に自分が苦しめられるということも、残念ながら起こり得るのです。
例えば、理想の自分と現在の自分を比べて、そのギャップに苦しんでしまう。
今のままでは到底夢を実現できないと焦ってしまって、無理な努力を続けてしまう。
夢に向かって努力をしていても、「こんなことをしていて本当に夢を実現できるのだろうか」と不安になる・・・。
あらゆることに表と裏、良い面と悪い面があるように、自分の夢が自分に与える影響にも好ましい面と好ましくない面があるのです。

私なんかは、大きな夢を掲げているため、それによっていい刺激もたくさん受けるのですが、反対に自分で自分の首を絞めていることもよくあります。
例えば、私は現在ロースクール出願に向けてLSATという試験の勉強をしているのですが、この試験のための勉強を、「LSATで合格点を取るため」の勉強と位置づけてしまうと、日々の勉強がたちまち”Chores”となり、苦しいこととなってしまうのです。
なぜなら、本番でいい点数を取るということに照準を当ててしまうので、練習問題をこんなに間違ってしまったとか、制限時間を大幅にオーバーしてしまったとか、そういった「足りない部分」にばかり目がいってしまうのです。
その結果、「こんなんで合格点なんか取れるわけない・・・」と落ち込んでしまい、「このまま勉強を続けても合格点が取れなければ時間を無駄にするだけではないか」と思うようになり、ますます勉強が辛くなるという悪循環に陥ってしまうのです。

しかし、それでは日々の努力も必要以上に辛く感じてしまい、長く続けることなど到底できません。
夢を実現させるためにその努力を始めたのに、夢に押しつぶされて努力を断念してしまうなんて、なんともったいない。
自分の夢のために自分を不幸にするのは悲しいことです。

しかし、そんな私の悪循環を断ち切ってくれたのは、司法試験の受験指導で知られる『伊藤塾』の塾長・伊藤真先生の著書『夢を現実に変える方法』にあった言葉でした。

“夢は、将来の自分のためにあるのではない。”
今の自分を輝かせるためにあるのだ。
(後半部分は一部私の解釈で変更を加えました。)

「将来のことを考えて楽しむのも、もちろんいい。しかし、それは「将来が楽しいから」ではなくて、「今、そのように考えていられる、自分の幸せを実感できる」から楽しいのです」と、伊藤真先生はおっしゃっています。

今の努力が実を結ぶかどうかはわからない。でも、結果がわからないからといって、今の努力が無駄になるかどうかなんて、誰にもわからないのです。
それでも、人が夢に向かって努力をするのは、その夢を本当に実現させたいという強い思いがあるからではないでしょうか。
人は、望んだ結果が手に入りそうだからとか、そんな計算が働くから努力できるものでもないですし、そんな計算に後押しされた意志なんて弱いものです。

今自分がやっていることが、望んだ結果につながるかどうかはわからない。
それでも私は、努力し続ける。
なぜなら、私には夢があるから。
「夢がある私」だからこそきっと、努力をやめてしまうと私でなくなってしまうのだと思います。

私は夢を追い続ける。
私が私であるために。

Yoshimi
2009.08.19 Wed l ├感情 l Comments (0) Trackbacks (0) l top
私がついついやってしまう癖の中で、他人と自分を比較してしまうというものがあります。

自分に対する評価が相対的なので、周りが自分より劣っていると感じる時は安心し、逆に自分が周りより劣っていると感じる時は不安で仕方ないのです。

きっと、劣等感が強いのだと思います。

昔の私は、自分より劣っていると感じる人を批判したり、嘲笑するということをしていました。

きっと、そうすることで何かしら安心感を得ていたのでしょう。

でも、それを裏返せば、私は人より「劣る」ということが怖いのだと思います。

だから、自分より劣っていると感じる人を批判することで、自分が人より「劣って」いないことを自分の中で確認することができ、それで安心するのです。

でも、反対に、自分が周りより劣っていると感じる時は、ものすごい不安感に襲われるのです。

まるで自分の全てが周りから否定されたかのように思え、自分が全く価値のない人間のように感じてしまうのです。

そうなると、自分は何が好きなのかとか、自分は何を信じているのかとか、そういった自分の価値観が全くわからなくなってしまいます。

本当に、今まで持っていたはずのものまで、何も思い出せなくなってしまうのです。

私がミシガンに来た最初の頃は、特にそうでした。

私は、自分のプログラムが「応用」経済学であったことは知っていたにも関わらず、ここまで経済「工学」的なプログラムだということを知らずに、ミシガンにやって来たのです。

そして、いざ新学期が始まってみると、授業は数学バリバリの内容で、クラスメイトはみんな理系のバックグラウンドを持ってる人ばかり。

中には、中央銀行や政府機関から派遣されてきた人もたくさんいました。

そんなツワモノ揃いの中にあって、私は、これから自分は本当にここでやっていけるのかということに、とてつもない不安を抱いたのです。

その不安はとても大きなものでした。

そして、ただでさえそんな不安定な状態のところに、運悪くとても教え方の悪い先生にあたってしまったのです。

本当は、その先生の教え方が悪くてみんな授業が理解できていないのに、私は、自分が劣っていると思っていたために、その授業が理解できないのは自分のせいだと思い込んでいました。

そして、思いつめるあまり、パニック障害を何度も引き起こすこととなりました。

それがきっかけで、Psychological Clinicでセラピーに通うようになったのですが。



しかし最近は、ちょっと違った見方をすることができるようになってきたのです。

自分より優れていると感じる人に出会うと、長年の癖でやっぱり最初はショックを感じてしまいます。

しかし、自分がショックを受けているという事実をありのまま受け止めると、そのショックもやがては薄れてきます。

そうして、よくよくその人の話を聞いてみると、その人がある点において優れているのは、本人がそうなるように時間もエネルギーもかけてきたからだということがわかってくるようになりました。

そして、そう考えると、私が他のことにエネルギーを使っている間に、その人はそのことに集中してエネルギーをかけていたのだから、その人がその点において私より優れているのは当然であり、逆に言えば、私にはその人がエネルギーをかけなかったところで、その人より優れている点があるかもしれないということです。

とすると、「劣っている」「優れている」という考えはもはや意味をなさなくなってしまいます。

なぜなら、それは個人の能力の差に関する問題ではなく、どこにたくさんエネルギーをかけたかという、資源配分の問題に過ぎなくなるからです。

たとえ、クラスメイトが素晴らしいプレゼン能力を持っていたとしても、それは、彼女がコンサルタントとして現職で働くうえで身につけた能力であり、職務経験のない私が、彼女のように素晴らしいプレゼンができないからといって、劣等感を感じる必要は全くなく、逆に、彼女の素晴らしいプレゼンを見る機会を持てたことに感謝するべきなのです。

そこのところを忘れて、私は全てが人よりもできなければならないと完全に思い込んでしまっていることがよくあります。

だから、自分より周りが優れていることにショックを感じるのです。

でも、ショックの感情はただのサイン。

自分の考えが狭まってしまっていることの表れだと思います。

これからは、少しずつ、気づいていこう。

心も美しい私になれる日を夢見て。
2009.01.22 Thu l ├感情 l Comments (0) Trackbacks (0) l top
今日、日本でロースクールに通う友人からメールが届きました。

そのメールは、以前に私が彼女に宛てたメールに対する返事だったのですが、私はそのメールを読んで感動して泣いてしまいました。

一つは、私が送った一通のメールが彼女を救ったということに対する感動。

そもそも私が彼女にメールを送ったというエピソードは、とても不思議ないきさつからでした。
彼女にメールを送る前、私はとても困難な状況にいたのです。
思い描いた夢の道を目指して進んできたものの、現実の生活が思うようにいかず、不安と焦りを抱えながら忙しい毎日に流されてきました。そして、そうしているうちに、自分の夢も何も信じられなくなり、ついにはすっかり自信をなくしてしまっていたのです。

そんなある日、私は日本から連れてきた大好きな佳川奈未さんの著作の中から、ふとある一冊を手にし、読み返してみたのです。

ページをめくりながら、私は涙と一緒に熱い思いがとめどなく溢れ出てくるのを感じました。

その本は、その時の私に一番足りなかったものを教えてくれたのです。

その本は、その時の私に一番必要であった気づきをもたらしてくれたのです。

それは、感謝の心でした。

私は、今まで自分を苦しめていたものは、感謝の心を忘れた自分の貧しいものの考え方であったことに気づいたのです。

辛いのは現実ではない。
辛いと感じるのは、自分が現実を貧しい心のフィルターを通して見ているからなんだ。
そのフィルターを取り払ってしまわない限り、私はどこにいて何をしていても辛い思いをすることになるんだ。
今まで自分を苦しめていたのは自分自身だったんだ―

そのことに気づいてから、私の人生が少しずつ変わり始めたのです。

まず、一度は完全にあきらめようとした法律家になる夢に、自分の人生を賭ける覚悟を決めたのです。
それもただの法律家ではなく、うつくしき法律家に!!
そうして、その夢の実現のためにできることを一つずつ考えていくうちに、司法書士試験を受けるという選択をしたのです。
そうなると、試験対策をしなければならなくなるわけで、法律の勉強のことなどすっかり忘れていた私は、助けが必要であると感じました。

しかし、誰にでも助けを求めるわけにはいきませんでした。なぜなら、私の大切な夢の実現への課程に関わってもらうことになるからです。私は、私の夢をちゃんと理解してくれる人にしか頼めないと感じていました。自分の夢を理解してくれない人から、否定的なことを言われるのは嫌だと思ったからです。

そんな時にふと、私はこの友人のことを思い出しました。
ロースクールで一緒だった時から、何か不思議な縁を感じていたこの彼女。
特に価値観が合うというわけでもないのに、どこかいつも心のどこかで気になっていた彼女。
そして私は思ったのです。
「あぁ私、彼女にも感謝の心を持って接することができてなかった・・・」

そう気づいた途端、私はなぜか急に彼女にメールを送りたくなりました。
そして、何かに取り付かれたように、私は自分の正直な気持ちを綴った長い長いメールを一時間かけて打ったのです。
この、一方的に私の感情を綴ったメールに、彼女がどんな反応をするか、私は少々不安もありました。
けれども、それよりも、私は彼女に対して”フィルターを通さない自分”を出したかったのです。
私は、純粋に、感謝の気持ちを持って、このメールを打ったのです。
ですから、それをどう解釈するかは、彼女に任せるしかないと思っていました。

そうして何日か経つうちに、彼女からメールが返ってきました。
そして私は、彼女のメールを読んで驚きました。
私が彼女にメールを送った時、彼女もまた心身共に辛い状況にあり、どうにもならなくなって学校を続けられるかどうかもわからない程辛い思いをしていたというのです。
そんな時に彼女は私のメールを読み、彼女にとっても忘れていた大切なものを思い出すきっかけになったそうです。
それと同時に、彼女はこうも言っていました。

「今の自分の置かれている状況、人との関係、自分の生き方、そういったものを弁護士を目指すうえで本当に自分なりの指針を持っているのか突きつけられた気がします。 」

私は、自分の打ったたった一通のメールが、人の心を動かし、その人の魂に影響を与えることができるということにとても感動しました。
人の心を動かすということが、こんなにも感動的なことだなんて。

感動できるということは感謝に値する。
でも、人を感動させられるということは、もっと感謝するに値する!!

2008.12.20 Sat l ├感情 l Comments (0) Trackbacks (0) l top